2023-04-25

断髪令後、断髪した婦女子

 いわゆる断髪令が出されたのは明治4年(1871)8月のことです。断髪令を受けて、髪を切った女性がいたのが、当時の新聞などからわかります。そして、ちょっとした混乱が起こったようです。

『明治事物起源』によると

『日要新聞』(東京府)第19号に、断髪令の翌年5月に、近ごろザンギリにする婦女子が往々に見受けられる状況を紹介し、「婦女子の長髪は、もとより男子と区別すべきで、従前の通りとし、断髪令の主旨を取り違えることがないように」とする旨の掲示が明治5年に府下の札場にあった、と書かれています。


男子断髪令の推奨が効きすぎて、年若い娘子まで断髪する状況に、これまでの男子とは正反対に女子には罰金を科すようになった、と『明治事物起源』の石井研堂さんは解説しています。さらに、違式註違条例第39条に、いわれなく断髪した婦人に科料(罰金)を課す、という条文を紹介しています。


違式註違条例とはいまの軽犯罪法に近い罰則規定で、断髪した婦人は註違罪になるということです。前述の東京府以外にも各県で同様の違式註違条例が発出されたことがうかがえます。


断髪した婦女子に罰金を科すのはいいのですが、断髪した婦女子が外出するたびに、罰金が科せられる事態になったため、その対応策として、「用捨証」を発行することにしました。一種の罰金支払い証明書というものです。罰金を支払ったときの髪の長短に応じて、「用捨証」の有効期間が100日、150日と決められていたといいます。


罰金を支払った断髪婦女子が外出するときは、この「用捨証」の持参がもとめられ、巡査から咎められたときに「用捨証」を提示することで、二重の罰金支払いを避ける仕組みでした。


断髪婦女子とは別に、病気や赤い信女(*)ら髪の毛を失ったり、短くしたりする婦女子は違式註違条例違反にはなりませんが、その届出が必要でした。『明治事物起源』にはその届出方法が紹介されています。婦女子の断髪は盛んに行われ、海外の邦人女性も断髪にしたようです。『明治事物起源』では、清国の在留邦人の心得規則に一条をもうけて婦女子の断髪を禁止した、と記述しています。この事例から、断髪する婦女子は国内にとどまらず、海外に居留する婦女子の多くが断髪していたのがうかがえます。


当時の多くの新聞が政府の方針にもとづき、婦女子の断髪を批判しています。しかし、中には婦女子の断髪に肯定的な新聞があったことも『明治事物起源』は紹介しています。

金沢で発行されていた『開化新聞』(*)です。断髪令が出された翌年の明治5年正月の第4号に、当地(金沢)で断髪する婦女子が多くいることを書き、さらに、「櫛、笄の虚飾、油元結などの無駄を去る」として経済的な面から断髪を評価しています。明治18年に婦人束髪会が主張した論旨の一部と同じです。明治初期には日本髪の不経済さはすでに認識されていたようです。


断髪令後の婦女子の断髪が多くあったことがわかる『明治事物起源』の記事です。


*)赤い信女:夫を亡くし髪を落とした未亡人

*)『開化新聞』:明治4年(1871)、吉本次郎兵衛が金沢で創刊した新聞。正式名称は『官許開化新聞』。後の『石川新聞』


<済>


0 件のコメント:

コメントを投稿

注: コメントを投稿できるのは、このブログのメンバーだけです。

セルフ、専属理美容師、大多数は理美容室を利用

 理美容という仕事はいつ始まったのでしょうか?