辮髪と丁髷は、スタイルはまったく違いますが、頭を剃るという共通点があります。
清国で辮髪が行われたのは17世紀中ごろから、丁髷はそれよりやや早く16世紀末ごろから。終焉したのは辮髪は清王朝が滅亡した20世紀初頭、丁髷は19世紀後期と、ほぼ同時期に流行った頭髪風俗です。
違いは、辮髪は主に頭周を剃り上げたのに対し、丁髷の月代は中央を剃ります。残った髪の処理も違います。辮髪は編み込んで背中に垂らしますが、丁髷は結い髪です。剃るという行為は共通していますが、髪型自体はまったくの別物です。
辮髪は、明王朝を滅ぼし清王朝を興した満州族によって漢民族が強制された髪型です。「頭を留める者は髪を留めず、髪を留める者は頭を留めず」と脅され、抵抗する漢民族は殺されたといいます。やがて辮髪は普及し、清国の男性風俗として定着しました。
一口に辮髪といっても民族、時代によって違います。辮髪そのものは、古くから北方騎馬民族が行っていた、といわれています。契丹人は頭頂部のみを残し、いま私たちがイメージする辮髪をしていました。清国をたてた満州民族の女真族もこれに近い。モンゴル人は両側頭部の髪を残していたというから、日本の月代に近い。漢民族は清王朝後期には前頭部を剃りこみ後頭部の髪を残すスタイルが多かったといいます。
日本の丁髷・月代も身分や時代によって多種多様あるように、辮髪も多種多様だったようです。
辮髪も丁髷・月代も歴史上、特異な髪型風俗といえます。西洋人に奇異に映ったのも共通しています。
丁髷・月代は兜を被る際に頭が蒸れるのを防ぐための工夫から生まれましたが、辮髪の発生も同様の理由からです。これも辮髪と共通しています。
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