2022-03-21

井上馨外務大臣 武子夫人の女髪結

 不平等条約の改正を目指した欧化政策の一環として鹿鳴館で洋装の男女による舞踏会がしきりに開かれました。


明治の中ごろのころです。時の井上馨外務大臣の夫人・武子さんと親しくしていた女髪結がおたきさんです。

『明治百話』(上)(篠田鉱造・著、岩波文庫)に登場する女髪結・おたきさんの話。


同書では、「井上さんの奥様には重宝がられた」とおたきさんの子息が回想しています。

井上伯爵が還暦を迎え、久々に国もと(山口)へ帰るとき、おたきさんと落語家の円朝が同道した話が紹介されています。「円朝は殿様のお供、母は奥方様のお供」で、名所旧跡を巡りながら、往復60日間の長旅だったようです。おたきさんは奥様の御髪を上げるだけの役目で、行く先々で馳走になったと書いています。


鹿鳴館を舞台にした芥川龍之介の小説(『舞踏会』)や、三島由紀夫の戯曲(『鹿鳴館』)は創作ですが、三島由紀夫の戯曲は当時の実在の人物を想起させます。登場人物の影山伯爵と妻・朝子は井上伯爵夫妻を想起させます。


井上外務大臣が主催した舞踏会で、武子夫人も洋装して、欧米の賓客をもてなしたでしょう。しかし、洋装化政策による条約改正は不調に終わり、井上大臣は辞任します。

鹿鳴館の洋装化で国内の洋装化が広まったかというと、そんなことはありません。逆に洋装化の反動で、和風の風俗が再評価されます。鹿鳴館時代とほぼ時を同じくして、婦人束髪の会による束髪推進運動が起こり、日本髪を簡略にした束髪が広まるとともに丸髷や島田などの日本髪も復活します。


井上伯爵が還暦を迎えたのは、『近代日本人の肖像』(国会図書館)から明治29年ごろになります。

鹿鳴館では洋装姿でアップスタイルの髪型をしたであろう武子夫人は、元の和装、和髪に戻っていて、気心の知れた女髪結・おたきさんを同伴したのでしょう。武子夫人がした髪型は束髪なのか、丸髷なのか、当時登場した庇髪なのかは想像するしかありません。


ちなみに木戸孝允の夫人・松子は幾松、伊藤博文夫人の梅子は小梅、陸奥宗光夫人の享子は小鈴(こかね)と明治の政治家には芸妓あがりの正妻がいますが、武子夫人は新田義貞の子孫にあたる武家の出で、旅行中はお付きの人が大勢いたにもかかわらず、自分の下着は自分で洗っていたことが、おたきさんの記憶として記されています。


写真は、洋装姿の井上武子さん。ドレスは当時、ヨーロッパで流行していた、腰の後ろを大きく膨らませ、ウエストは胸を強調するためにめ上げたバッスルスタイル。


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