2021-08-12

女髪結事始め

 理美容の仕事の事始めについては、業のなりたちからして、特定することはできないし、意味もありません。


女髪結も同様です。

江戸では、歌舞伎女形の山下金作(二代目)付きの鬘付(床山)が深川仲町の遊妓に髷を結ったところ評判になり、その床山が甚吉という若い男に教え、さらに甚吉が女性に教えたことが女髪結のはじまり、という説が知られています。甚吉さんはいまでいうLGBTの人で、自分は女性と思っていたといいます。


これは山東京伝の実弟・山東京山が『蜘蛛の糸巻』(弘化3年/1846)に記した内容です。

この説によると、女髪結の事始めは、山下金作が上方から江戸にやってきた安永の末以降になります。山下金作は寛政11年になくなっていますので、安永末から寛政はじめごろ、つまり18世紀後期に江戸の女髪結がおこったことになります。


髪結名人のお松さん

江馬務さんは『日本結髪全史』のなかで、山東京山の説とは別に、『百々囀』(延享元年/1744・刊)に記載された内容を紹介しています。


それによると、堺町・芝居小屋の裏新道に歌舞伎役者・中村富十郎の鬘付(床山)に仙吉という者が住んでいて、その娘に松がいました。松は顔立ちは醜く、年頃になっても縁がありませんでした。その松は手先が器用で女の髪を結うのに長けていました。初めは頼まれれば出向いて髪を結っていましたが、昨年(寛保元年)の夏から、富十郎の紋所(矢車)の印を入れ「御女中方の髪結申候」と書いた大きな看板を路地口に出すようになりました。近頃は女弟子を二、三人も置き昼夜繁盛しています。松の女髪結処の繁盛ぶりに、まねをする不心得者も現れ、堺町は女髪結処が三軒もありました。

最初は遊女らを相手にしていましたが、地女も女髪結を頼るようになり、自らの髪を結うのを恥じるようになりました。

これは寛保二年(1749)に書かれたもので、18世紀中ごろにはすでに江戸の町に女髪結が仕事をしていたことになります。


この松さん、相当腕がよかったらしく、江馬務さんは同書で、「むかしは堺町のお松に髪も三日目に結わせ菊之丞の芝居に入り浸り…」(山東京伝『浮気小町流行末』)、「堺町に名うての髪結お松さんを呼ぶには迎ひの三度は定めのこと…」(柴舟庵一双『一睡胡蝶夢』)などを紹介しています。


山東京伝『浮気小町流行末』も柴舟庵一双『一睡胡蝶夢』も詳細は不明ですが、松さんが活躍した時代から半世紀以上は経ってからの著作になります。お松さん、後世に名をのこすほどの髪結名人だったようです。


この説によると、江戸の町には18世紀中ごろには女髪結が仕事をしていたことになります。


江馬さんは同著で、『嬉遊笑覧』(喜多村信節、文政13年/1830)が女髪結の起源を「天明末寛政初ごろ」と記述しているのを否定しています。「天明末寛政初ごろ」はおおよそ1790年を挟んで前後2、3年になります。二代目・山下金作の足跡からの判断と思われます。


上方の女髪結

上方では、江戸より早く女髪結が仕事をしていたとされています。江戸時代前半は上方が先進地でした。


歌舞伎の髪型にも造詣の深い金沢康隆さんは『江戸結髪史』のなかで、女髪結の起源を紹介しています。『南水漫遊』(浜松歌国、江戸後期)を引いて、竹本座のあやつり敵討未刻の太鼓下の巻きにあるセリフから、明和の初年にはすでに女髪結が出現していたとしています。その女髪結は、江南俳優家の金剛の妻とされています。金剛というのは、歌舞伎役者付きの世話人で男衆ともいいます。明和初年は1764年になります。これでは江戸のほうが先に女髪結が誕生したことになります。


金沢康隆さんは、寛延元年(1748)に粂太郎座(京)で上演された「けいせい紅葉軍」に中村富十郎が「女髪結おつけ」役を演じていることをあげ、この時代にはすでに女髪結が世間に知られる存在だったことを指摘してます。


また、同じく『南水漫遊』からの孫引きになりますが、明和7年ごろの大坂では女髪結が世間でもてはやされていたこと、安永6年の戯作に「富てせわしきものは、虎屋の饅頭切手、竹田のからくり、女の髪結」とあり、大坂では18世紀なかごろには女髪結が繁盛していたのがわかります。

しかし、こららの情報については原本を確認するのは難しい。


手ごろな資料として『好色一代女』(井原西鶴、貞享3年/1686)があります。作り話といってしまえばそれまでですが、描写の背景には当時の情景、状況がちりばめられているはずです。


『好色一代女』は高貴な家に生まれた女性の遍歴を書いたものですが、この物語のなかで主人公の女性は武家の女性の髪を結う仕事をしています。一種のお抱え髪結といえます。もともと理美容の仕事の起源はそういうものです。作り話の創作にしろ、当時の社会の状況を井原西鶴さんは見て書き込んだと考えられます。

このことから、17世紀後半ごろにはすでに女髪結の仕事の需要があったのがうかがえます。


よく江戸時代の女性は自分の髪は自分で結うのが当たり前とされ、セルフで結うためになみなみならぬ稽古をしたのは事実です。しかしすべての女性がセルフで結うまで上達したわけではありません。


満足に結えない女性もいた

遊女として奉公に出るとき、髪が結えるか否かで身売りの金額が違ったといいますが、なかには結えない女性がいたから問われたのだと思います。たとえ簡便な髪は結えても、おしゃれな髷に結いあげるまでには至らない女性は少なくなかったと考えられます。


また日本人の何%かは縮毛の人がいます。江戸時代にもいました。カール程度の縮毛でも日本髪を結うのは難しい。こういう女性は他人に助けてもらい粘性の高い鬢付け油を使って、強いテンションをかけて結ってもらっていたものと考えられます。


17世紀中ごろ以降には垂髪からタボがつくられるようになり、唐輪や島田や勝山が結われる過渡期になりますが、そのころにはすでにお抱えの女髪結がいたとしても不思議ではありません。


宝天期には遊女相手の女髪結が活躍

江戸時代は日本独特の髪型、いわゆる日本髪が創られ、後期に興隆しました。

それまでの女性は垂髪でしたが、江戸時代になると後ろ髪を輪髷にしたり、かもめツトを入れたり、また髻をとり徐々に後ろ髪が上がっていきます。遊女や女性芸能者は男装を好み、男髷を取り入れるようになり、後の島田髷や勝山髷へと変化します。遊女や芸能者は流行を生み出す人たちで、一般の女性も彼女らの影響を受け、日本髪は浸透していったとみられます。


垂髪の時代から特権階級の高貴な女性は侍女らに髪を整えてもらっていたと思われますが、江戸の時代になっても同様でしょう。髪を手入れする侍女はいつの時代にもいたはずです。


遊女らの集団は、基本はセルフだったと思われますが、仲間内で髪を整えあったり、また遊郭が発達すると年季明けの遊女で手先の器用な女性はそのまま廓に残って、遊女らの髪を結っていたとしてもおかしくありません。


女髪結が注目されるのは、宝暦から天明の田沼時代のころだと思われます。当時経済的な状況の変化もあってか、男女ともにユニークな髪型が登場します。男は辰松や文金、本田髷などです。女性はなんといっても灯篭鬢です。灯篭鬢は特殊な鬢差しを使うので、セルフで仕上げるのは難しい。二人一組で結いあうか専門の髪結に頼まなければできそうにありません。逆に灯篭鬢の髷姿は女髪結がいたから可能な髪型といえます。


この当時、宝暦-天明、宝天期には遊女相手の女髪結が活躍していたものと推察します。そして一部の地女も女髪結に結ってもらうようになっていました。このような時代を経て寛政の改革、天保の改革で奢侈禁止の一連の改革のなかで、奢侈の象徴として女髪結が標的にされました。しかしすでに女髪結は多くの女性にとって必要な存在でした。


髪結事始めといっても、庶民風俗は社会の変化の中で誕生するものです。しかも徐々にゆっくりと変化し、拡散していきます。


江戸学、江戸雑学の偉い先生の著作のなかには、江戸での女髪結の起源を安永7年(1778)ごろと記述している本もあります。間違いではないにしろ、限定的に過ぎます。

同様に髪結賃を24文から32文と書いてある著作がありますが、間違いでないにしろ、もっと幅があります。


結局、庶民の風俗、庶民の生活はいろいろです。


0 件のコメント:

コメントを投稿

注: コメントを投稿できるのは、このブログのメンバーだけです。

ヒゲを当たる

 「ヒゲを剃る」ことを「ヒゲを当たる」ともいいます。