2020-12-01

烏帽子の装着は絶対風俗

 「春はあけぼの」ではじまる『枕草子』は、清少納言が書いた随筆で、『源氏物語』と並ぶ平安時代の古典です。

一条天皇の妃である中宮定子に清少納言が仕えていた10世紀末ごろに書かれましたが、世に知られるようになったのは寛仁元年(1017)ごろといわれています。平安王朝時代の清涼殿の宮中生活や、才気あふれるやりとりが自慢話をまじえながら感性豊かに描かれています。


「春はあけぼの」の第一段は、古文に必ず出てくるフレーズで有名ですが、男女の機微を女性の立場から描いた第60段(人はなほ、暁の有様こそ、をかしうもあるべけれ。)もおもしろい。

通い婚の当時、一夜をともにした男が女性のもとを後にする情景を描いて、去り際による男の情愛について評価しています。

原文は最後に紹介しますので、興味のある方はご一読ください。


ここでは、男が身についけていた衣服や烏帽子について。

男といっても直衣、袍、狩衣を身に着けているので、殿上が許された公家です。烏帽子に関しては「鳥帽子の緒、きと強げに結ひ入れて、かいすふる音して」とあります。烏帽子の紐を強く結んでかぶり直す音がして、と男が立ち去る様子を描いています。


一夜をともにしたのですから、衣服については想像できますが、烏帽子については外したのか、つけたままだったのか推測するしかありません。平安時代の公家にとって烏帽子の装着は絶対的な風俗です。烏帽子を外すことは、いまでいうならパンツをはかないで外出するようなもので、大変恥ずかしいこととされていました。

冠下の髻


寝る時も烏帽子をつけたままです。外すのは、冠下の髻という烏帽子に収め烏帽子を固定する髷を結い直すときぐらいです。


枕草子の一文は、当時の常識からすれば、装着していた烏帽子の紐が緩んでしまった、と解釈すべきでしょう。なにしろ枕元に置いてあった扇や懐紙があちこち散乱してしまうほどでしたから。


平安時代は烏帽子の装着が絶対でしたが、時代が下り鎌倉時代後期から室町時代になると、夜、寝るときは烏帽子を外した絵画もあり、徐々に絶対風俗ではなくなっていきました。さらに時代が下り、戦後時代末期には烏帽子をかぶらない、露頂が普通の風俗になり、烏帽子は式正なときにのみつけるように変わりました。


そして、江戸時代は丁髷が髷風俗になりますが、丁髷は冠下の髻が変化したものです。さらに丁髷は島田髷など女性の髪風俗へと変化していきます。髪結風俗の根源は、冠下の髻にあります。


ところで、清少納言が『枕の草子』を書いた10世紀末、京の都は疱瘡や疫病がたびたび流行し、また飢餓がおこるなど大内裏のすぐすぐ隣では悲惨な状態が出現していました。「死者が街路に満ち往還の客、鼻をふさぎこれを過ぐ、烏犬食に飽き、骸骨巷塞ぐ」(『本朝世紀』/藤原通憲著。平安時代末期の成立)。正暦5年(994)、京の都にあふれた病人の収容と死人の処理が命じられています。

優雅な宮中絵巻と地獄絵図が同時進行していたのです。


当時の日本の人口は推定700万人ほど。殿上人の貴族は1%もいなかったでしょう。大多数の人は直衣、袍、狩衣、十二単、烏帽子などとは無縁な着の身着のまま、病苦を恐れながら、その日の飢えをしのぐのが精いっぱいの生活をしていました。



『枕草子』第60段


人はなほ、暁の有様こそ、をかしうもあるべけれ。


わりなくしぶしぶに、起きがたげなるを、強ひてそそのかし、「明け過ぎぬ。あな見苦し」など言はれて、うち嘆く気色も、げに飽かずもの憂くもあらむかし、と見ゆ。


指貫なども、居ながら着もやらず、まづさし寄りて、夜言ひつることの名残、女の耳に言ひ入れて、なにわざすともなきやうなれど、帯など結ふやうなり。


格子押し上げ、妻戸ある所は、やがてもろともに率て行きて、昼のほどのおぼつかなからむことなども言ひ出でにすべり出でなむは、見送られて、名残もをかしかりなむ。


思ひいで所ありて、いときはやかに起きて、ひろめきたちて、指貫の腰こそこそとかはは結ひ、直衣、袍、狩衣も、袖かいまくりて、よろづさし入れ、帯いとしたたかに結ひ果てて、つい居て、鳥帽子の緒、きと強げに結ひ入れて、かいすふる音して、扇、畳紙など、昨夜枕上に置きしかど、おのづから引かれ散りにけるを求むるに、暗ければ、いかでかは見えむ、「いづら、いづら」と叩きわたし、見いでて、扇ふたふたと使ひ、懐紙さし入れて、「まかりなむ」とばかりこそ言ふらめ。

薙髪(ちはつ)

 「薙髪」は「ちはつ」といいます。『広辞苑』に掲載されている言葉ですが、令和のいま使う人は一部の僧侶ぐらいで、一般の人はまず使いません。