『武江年表』(斎藤月岑)嘉永6年(1853年)10月15日の記述に
「本所にて夜鷹40余人召捕られ入牢。是時、市中の女髪結も召捕へられしといふ。」
という一文があります。
出典は今井金吾校訂の筑摩書房「ちくま文芸文庫」版『定本 武江年表』です。
『武江年表』は斎藤月岑が著した江戸の記録ですが、喜多村筠庭(『嬉遊笑覧』の著者)はじめ何人かが補訂を加えています。
前述の一文は、朝倉無声(1877-1927、近世文芸・風俗研究家)が補筆したものです。
この一文の引用元の記載はありませんが『東京市史稿』かもしれません(推測です)。
市中とあるので本所に限らず江戸の町全体の女髪結が捕えられた、と理解できます。しかし、捕らえられた人数は不明ですし、受けた罰も不明です。
女髪結に対する江戸の規制は、寛政の改革で出された「女髪結差止説諭」(寛政7年)が最初です。この説諭は、女髪結が町内にいたら仕事をやめて他の職につくように指導しなさい、と名主らに要請したものです。
名主らが、この要請に従って女髪結をきちんと指導したかは疑問です。女髪結もいっときは派手な営業は控えたかもしれませんが、寛政の改革が失敗したあと復活しました。
天保年間には、寛政の改革の説諭を一段と強めた「女髪結転廃業令」(天保10年)が出され、これは女髪結を直接規制するものでした。
天保の改革は天保12年に始まり、翌年には「隠売女・女髪結等取締申渡」(8月)、「女髪結仕置厳重改正評議」(10月)など出され、女髪結に対する取締りを強化し、女髪結やその親らが捕縛されています。しかし、これも改革が失敗すると再び女髪結稼業は復活します。すでに一部の女性から女髪結は必要とされる仕事になっていました。
そして嘉永6年、女髪結が召捕えられる前の5月に「女髪結禁制教諭徹底方」が出されています。これは寛政の改革で出された「女髪結差止説諭」を強めた触れといえます。
こうしてみると、天保の改革で実際に捕縛されたものの、幕府の女髪結に対する規制は、転職を促す程度の比較的緩いものだったようです。女髪結を指導する名主らの町役人も女髪結の役割や実情を知っていて手心を加えていたと思われます。
「女髪結禁制教諭徹底方」が出された直後の「是時、市中の女髪結も召捕へられしといふ。」という一文に違和感を覚えます。
以下は推測ですが、天保年間の「隠売女・女髪結等取締申渡」の振れをみると、隠売女と女髪結とが同列に扱われています。隠売女は娼婦です。幕府は非公認の娼婦に対する取締は厳しく行っていました。もしかしたら、女髪結のなかに娼婦もどきの行為をしていた輩がいたのかもしれません。
0 件のコメント:
コメントを投稿
注: コメントを投稿できるのは、このブログのメンバーだけです。