2020-12-06

「一銭職由緒書」は偽情報だが一蹴はできない

 フェークニュースといえばトランプ大統領の常套句で、偽りのニュースです。フェークニュースは21世紀のことですが、世の中には昔から偽りの情報がはびこっていました。日本では江戸時代の「椿井文書」がその代表格の一つとされています。

『椿井文書ー日本最大級の偽文書』(中公新書)を著わした馬部隆弘大阪大谷大准教授が2020年12月6日付けの読売新聞「あすへの考」という全面コラムで、「江戸期の偽文書が史実に」として椿井文書を紹介しています。


「椿井文書」を書いた椿井政隆(1770~1837)は江戸時代後期の国学者で、コラムでは偽情報を書いた背景などを紹介しています。2世紀後ほど経ったいま、偽情報の都合のいい部分をあたかも史実のごとく引いて市町村史に掲げる例が少なくない、と馬部准教授は指摘しています。

偽情報も公的な自治体が採用すれば撤回するのは困難で、やがて誤解を招くことになると懸念しています。


江戸時代に書かれた由緒書も、そのほとんどが偽情報に彩られています。髪結床の「一銭職由緒書」もその一つです。当時、髪結床は一銭職とも呼ばれていました。あるいは一銭剃りということもありました。もともと、月代剃りが一銭だったからです。


「一銭職由緒書」によると、髪結職の祖は亀山天皇期の北面の武士で、天皇の刀を紛失したことから、人の往来の多い下関で、その武士を親に持つ子が始めたことになっています。北小路采女之といいます。

その7代後の子孫・藤七郎は、武田軍との戦いで敗走する徳川家康の渡航を助けた逸話も挿入されています。

髪結職の祖は、高貴な北面の武士で、しかもその子孫は大御所の徳川家康を助けた功績があり、幕府に多大な貢献があることを強調した一文になっています。


高貴な業祖をいただき、幾多の貢献があるのだから、帯刀、休みは月2日、手形不要の自由通行、無賃渡航、などなど認めてほしい、と訴えています。


この由緒書きを江戸町奉行に上申したのは万治2年(1659)正月、上申者名は北小路左衛門尉藤原晴公 末裔 藤原半蔵とあります。北小路左衛門尉藤原晴公は北面の武士で、北小路姓は藤原一族の流れです。


「一銭職由緒書」より20年ほど前、江戸市中では、髪結職は鑑札制になっていて、髪結の仕事をするには幕府の鑑札が必要でした。ところが無鑑札で仕事をする髪結がいて、明暦元年(1655)に「髪結有札無札者」の調査が行われ、翌年には辻髪結が禁止されています。このころには髪結は江戸の町で盛んに仕事をしていたのがうかがえます。


明暦の大火(明暦3年)で幕府は新たな江戸の町つくりに取り組みます。髪結を江戸の町の自治に取り込み、大火の翌年、万治元年に一町に一軒の髪結床、つまり一町一株とします。株は主に地主や家持クラスの町人が保有し、売買されました。


その翌年に上申されたのが「一銭職由緒書」です。すでに一町一株として公許されている髪結職です。幕府としても、それなりの由緒が必要だったのかもしれません。髪結職も「一銭職由緒書」で、もともと蔑視的な意味合いだった一銭職を名誉ある職業名として語り、由緒をつづったのです。

江戸には由緒書きなどの書面を作成する、故事に知識のある学者風情の人がいて、もっともらしく仕立てあげていたといいます。


「一銭職由緒書」に対して、『日本結髪全史』の江馬務さんは「とるにたらぬもの」と一蹴しています。「一銭職由緒書」に限らず、多くの歴史家は由緒書をまともに相手にしていません。


偽情報として一蹴してしまうのは簡単です。

しかし、髪結職、その後の理髪業や理容業、美容業に携わる人にとっては、業の祖を示す貴重な史料であり、業のアイデンティです。歴史の真実は別にしても、采女之を祀り、業に感謝する心は大切にしたい。


【参考文献】

『理髪業祖北小路采女之介伝記』(浜野行民 編、大正11年、出版・采女会)

国立国会図書館デジタルコレクション

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/927450


『日本史年表』(岩波書店)

『日本結髪全史』(創元社)

『東京市史稿』(東京都)

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